第1回大会から参加し続けている国はわずかに5カ国。ギリシャ、イギリス、フランス、スイス、オーストラリアのみです。2020年の東京五輪出場で、なんと29回目に。
マラソンの競技距離が半端なワケ。それは1908年のロンドン大会、アレクサンドラ王妃が「スタートは城の庭、ゴールは競技場の貴賓席の前」と注文したからだそうです。
イギリスのフィリップ・ノエルベーカー選手は、1920年アントワープ大会、男子1500mで銀メダルを獲得。その後、政治家に転じ1959年にノーベル平和賞を受賞するという、偉業を成し遂げています。
日本が初参加した1912年ストックホルム大会でのこと。開会式で使う日本のプラカードには、当初『JAPAN
』と記されていました。しかし日本代表の団長だった嘉納治五郎氏が、日本は『NIPPON』であると主張。『NIPPON』と書き直されました。その後、オリンピックでこの表記が使われることはなく、最初で最後の『NIPPON』での行進となりました。
1960年ローマ大会、ボクシングの金メダリスト、モハメド・アリ選手は、金メダルを獲得したにも関わらず、帰国直後にレストランで人種差別を受け、怒りと悔しさからメダルを川に投げ捨てました。
この悲しい出来事から36年後のアトランタ大会。聖火ランナーを務めたアリ氏に、オリンピック委員会は敬意をこめて新しい金メダルを授与しました。
1976年モントリオール大会、日本女子バレーボールチームは、予選リーグから1セットも落とさない圧倒的な強さで金メダルを獲得。
セッターの松田紀子選手は試合後、「苦しい練習を一緒にやりながら出られなかった永木さんに金メダルの半分をあげたい」と語り、五輪の最終メンバーに落選した親友の永木芳子選手に、2つに分けた金メダルの片方を贈りました。
1912年のストックホルム大会、マラソンの金栗四三選手は、レース中に日射病で倒れ意識不明に。近所の農家に助けられるも、意識が戻ったのは翌日の朝でした。
1967年、ストックホルムオリンピック開催55周年式典の準備をしていた委員会が、金栗選手の棄権の意思が主催者に伝わっていなかったため、記録が「行方不明」となっていることを発見。金栗氏を式典に招待し、競技場で
ゴールテープを切るという、粋な計らいをしてくれます。
このとき「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされ、金栗氏は「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とスピーチしました。